大連観光スポット「大連中山広場」

大連中山広場
大连中山广场
Zhongshan Square (Dalian)

大連中山広場は大連市の南東部に位置する中山区にあり、大連の象徴的な広場の一つです。直径約213mの円形広場を中心に10本の道路が放射状に延びており、広場に沿ってロータリー交差点となっています。観光スポットとして有名なのは、この広場と、この広場に沿って立ち並ぶ歴史ある建築物群です。

この大連中山広場ができたのは1899年(明治32年)です。
当時の時代背景として、日清戦争後、清(中国)は日本へ賠償金の支払いを求められていました。清の植民地化を狙っていたイギリス,ドイツ,フランス,ロシア(帝政ロシア)は、清にそれぞれ借款供与を行い、その担保条件として清国内の領土や港湾などを租借する権利を得ました。大連は、不凍港の確保のため極東進出を図っていたロシアが租借することとなりました。

  • 1894年(明治27年) 日清戦争始まる
  • 1895年(明治28年) 終戦。下関条約締結(日清講和条約)により遼東半島を日本が領有
  • 1895年(明治28年) 三国干渉(ロシア・ドイツ・フランス)により、日本は勧告を受け入れ遼東半島を清に返還
  • 1896年(明治29年) ロシアと清の間で露清密約が締結
  • 1898年(明治31年) ロシアと清の間で「旅順口及大連湾貸借に関する露清特別条約」が締結され、ロシアが遼東半島南端の旅順,大連を清から租借。大連はダルニーと名付けられる
  • 1899年(明治32年) 大連中山広場(尼古拉耶夫广场) 造園
  • 1904年(明治37年) 日露戦争始まる
  • 1905年(明治38年) ポーツマス条約締結による講和。ロシアは関東州(旅順,大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡。大連と改称
  • 1906年(明治39年) 関東州(租借地)を統治する関東都督府が旅順に、また南満州鉄道株式会社(満鉄)が大連に設立される
  • 1931年(昭和6年) 満州事変により「満州国」を建国
  • 1945年(昭和20年) 終戦。中国人による大連市政府が成立

このような時代の流れの中で、大連中山広場はロシアが統治していた時代に造園されました。ロシアは大連湾に面した小さな漁村である青泥窪(Qingniwa)を「ダルニー」と名付け、ここにパリをモデルとした都市設計を行いました。そして、その中心地にロシアで皇帝ニコライ2世(1868年-1918年)の名前を付け、ロータリーと放射状の街路を持ち当時のロシアで使われていた距離単位である「サージェン」で直径100サージェン(213.36m)の広大な円形広場『尼古拉耶夫广场(Nikolayevskaya Square, Nikolai’s plaza, ニコライの広場)』が1899年に登場しました。その後、日本が統治していた時代には「大広場」、終戦後「中山広場」と改称されました。

日本統治時代の大連の古地図には「大広場」の記載があります。
[出典] 野次馬的アジア研究中心
大連市史 大連市街図(1919年)

広場中央にある突き出た円形のステージから360度撮影しました。広場を取り囲むように立ち並ぶ歴史ある建築物群は日本が統治していた時代に建てられたものばかりです。これらの建築物群は今も使われています。

ホテルの営業終了に伴い2018年4月末をもって館内見学ができなくなるとのことです。 大連中山広場を取り巻く歴史...

大連中山広場へのアクセス/地図

現在、大連中山広場の下は2015年5月に開業した地下鉄2号線「中山广场」駅となっています。地図上のB,Dが地下鉄出口から公園への出入口となっています。
また近隣からはロータリーを横切り広場へ渡って歩いていくことも可能ですが、交通量も多く地下道を使うことをお勧めします。B,B1,B2、またD,D1,D2は地下でつながっています。

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