大連観光スポット「大連賓館(旧 大連ヤマトホテル)」

大連中山広場を取り巻く歴史ある建築物群の中でも「大連ヤマトホテル」(大連大和ホテル, 現在の大連賓館)は特に有名です。

大連賓館では、宿泊者は無料、宿泊者以外は有料で歴史が回顧できる館内見学が行われています。2009年に着工100周年、2014年に開業100周年とイベントがありました。現在は開業100周年の特別企画が行われています。(2017年3月現在)

100年の歴史を誇る旧大和ホテル・大連賓館へようこそいらっしゃいませ。
ご来館お客様に、さらにご満足していただくため、陳列室中に大連賓館が秘蔵する数々の逸品を特別展示しております。ご見学の客様には、同時に貴賓室や宴会場や昔の客室などをご観覧いただけます(日本語でご案内)。
100周年特別企画、この機会をどうぞお見逃さないでください。
入場料:50元/人

見学は担当の方が1名付き日本語の説明付きで、コースは以下のようなっています。
全体で20分程度です。具体的な見学方法は最後を参照してください。

見学順序フロアー内容
1)貴賓室(迎賓庁)1F会見室
2)陳列室2F古い写真、文物の展示室
3)友誼宮1F(2F陳列室から見学)
ヨーロッパ式豪華宴会場
20時超えるとダンスホールだった
4)昔の客室2F(208号室)溥儀の写真、当時の家具・調度品など

貴賓室(迎賓庁)。ここが会談、会議を行う場所です。日本から中曽根首相(当時)ら要人もここで会談しました。今でも市政府の会議が行われ現役で活躍している部屋です。

友誼宮(2012年に撮影)。天井右(写真の右上端)の窪んだところは実はスライド扉になっています。2Fの陳列室の壁を開けると、眼下に友誼宮が見えるようになっています。そもそも何の目的の扉だったのか気になりますね。

見学中にも前を通りますが、2Fに喫茶店「大和」があります。

この喫茶店のデッキから中山広場が見渡せます。過去のホテルに関する資料なども掲示されています。見学が終わったら是非ここも訪れてみてください。カフェラテは28元です。
デッキから撮影したものと昔のパノラマ絵画と比較してみました。

大連ヤマトホテルに関する歴史

現在、中山広場前に見えるホテルは1914年(大正3年)に竣工したものですが、なんと3代目です。観光スポットでも有名なところでもありますので、より深く理解するために長くなりますが3代目に至るまでの歴史を振り返ってみたいと思います。

1905年(明治38年) 日露戦争後のポーツマス条約締結による講和
1906年(明治39年) 南満州鉄道株式会社が設立
1907年(明治40年)ダルニーホテルを改装しヤマトホテルとして開業
1909年(明治42年)旧ロシア市政府(現存)を改修し移転
1914年(大正3年) 中山広場前に新館を竣工し移転開業(現在の大連賓館)
1931年(昭和6年) 満州事変
1932年(昭和7年) 満州国建国(元首:愛新覚羅溥儀)

今から遡ること112年前、日本と帝政ロシアの間であった日露戦争後のポーツマス条約によって日本が得た権利の中にこのような条項がありました。

・ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
・ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。

帝政ロシアより譲り受けた東清鉄道(中国東方鉄道,The Chinese Eastern Railway)の南満洲支線を運営するために半官半民で「南満州鉄道株式会社(満鉄)」が1906年(明治39年)に設立されました。同時に、この支線は南満州鉄道となりました。

この満鉄の初代総裁である後藤新平は、着任前の台湾総督府民政長官を担当していたときに、日露戦争中に『満州経営策梗概』を起草し戦争後を見据えていました。

「戦後満州経営唯一ノ要訣ハ、陽二鉄道経営ノ仮面ヲ装ヒ、陰二百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。是ノ要訣二随ヒ、租借地内ノ統治機関ト、獲得セシ鉄道ノ経営機関トハ、全然之ヲ別個ノモノトシ、鉄道ノ統治機関ハ、目下詮議中ノ遼東総督府ヲ以テ之二充ツ。鉄道ノ経営機関トシテ、別二満州鉄道庁ヲ起シ、政府直轄ノ機関トシ、鉄道ノ営業、線路ノ守備、鉱山ノ採掘、移民ノ奨励、地方ノ警察、農エノ改良、露国及清国トノ交渉事件並二軍事的諜報勤務ヲ整理セシメ、兼テ平時鉄道隊技術教育ノ一部ヲ担任セシムヘシ。~」

「戦後満州経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」
これこそが鉄道の経営のみならず、鉄道を軸とした関連産業の振興、沿線地域の開発など一企業でありながら行政府的立場で満州統治を目指す満鉄の基本的な経営の考え方となりました。

この経営戦略に基づき、南満州鉄道沿いの主要都市に展開したホテルチェーンが「ヤマトホテル(大和ホテル)」です。

一番最初に開業したのが「大連ヤマトホテル」でした。自由貿易港でもあった大連には外国人、また満州への玄関口として日本から多くの人が訪れました。大連のヤマトホテルは、日本の帝国ホテル、上海の和平飯店と合わせ当時の東アジアの3大高級ホテルの一つとうたわれ裕福な外国人、日本からの要人を受け入れていました。

一番最初の大連ヤマトホテルは、1898年(明治31年)から始まった帝政ロシア統治時代に建てられたホテル「ダルニーホテル」を流用し、1907年(明治40年)8月に開業しました。当時、大連はダルニーと呼ばれていました。
これからの写真はいずれも原画は白黒ですが「ディープネットワークを用いた白黒写真の自動色付け」技術を用いてカラー化しています。

帝政ロシア時代のダルニーホテル(Automatic Image Colorization)

しかし客室が少なかったこともあり、1909年(明治42年)5月にホテルの西側にあった満鉄の事務所を2代目大連ヤマトホテルとすることになりました。この満鉄の事務所は、元はダルニーの市役所だった建物でした。

2代目大連ヤマトホテル,右が最初の大連ヤマトホテル (Automatic Image Colorization)

この頃の夏目漱石の随筆に、漱石自身が「大和(やまと)ホテル」に投宿したことが書かれているものがあります。随筆『満韓ところどころ』は1909年(明治42年)9月頃に漱石が満州をめぐった旅の随筆で、大連で投宿していたヤマトホテルについても食堂や風呂などいくつか記述が見当たります。ホテルの場所を示すものとして

余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。

と文中にあります。当時の地図を見ると、地図左上に同年5月にできた2代目大連ヤマトホテルが見当たり、ヤマトホテルから一直線の先(地図右下)に「日本橋」が見当たります。漱石は2代目の大連ヤマトホテルに泊まったようです。

現在と1910年の比較

旧ダルニー市役所、日本橋(1908年3月完工、現在は勝利橋)は現存し観光スポット「ロシア風情街(俄罗斯风情街)」にあります。

漱石が眺めた光景は、今も見ることができます。
左に見えるアパートが最初の大連ホテルが建っていた場所です。

2代目大連ヤマトホテルから日本橋を望む(現在)

なお『満韓ところどころ』(著:夏目漱石)は著作権が消滅した作品を集めた青空文庫で読むことができます。当時の様子も描かれており、当時の大連の知識を深める一助になると思います。

漱石が投宿した頃の1909年(明治42年)に満洲第1の洋式旅館として、大連ヤマトホテルは以下のように紹介されています。掲載にあたり意訳しています。当時の1円は、現在との比較指標によりばらつきがありますが、現在の約3,000~8,000円程度にあたるようです。

フランス式レンガ造りの2階建て坪数約470坪で、貴賓室1、客室室35,応接室1,大食堂1、小宴会室1、待合室1,談話室1に最近の欧字新聞雑誌、図書および写真帳等を備えている。球戯室は2つあり,米国式フランス式英国式ポケット付き球戯台(ビリヤード台)がそれぞれ1台ずつ据え付けてある。また娯楽用としてドミノ、ルーレット、カード、碁、将棋等を備え、酒場を球戯室の一隅に設け、各国の高級な酒類およびタバコを置いている。
付属理髪所では熟練の理髪師がおり、米国最新式水力自在椅子を理髪用椅子として使用している。
別館(最初の大連ヤマトホテル)は本館に隣接しレンガ造り3階建てにして客室13、応接室1を有している。
旅館の設備については最大の注意を払い、寝具、食器はもちろん室内の装飾、空気の疎通などほぼ遺憾なきものとし、冬期は蒸気暖房を設備し、夜は館内ことごとく電燈を配置し、宿泊にはアメリカ風およびヨーロッパ風の2種類から旅行客の好みに応じている。
食事の調理はフランス式に則り経験ある料理人に担当させ、使用人は英語を解している。乗船乗車券を館内にて発売し、船車発着の際にはホテルの制服を着た送迎人を埠頭および停車場へ出し、馬車は貴賓用幌馬車、英国式ビクトリア及びオムニバス(乗り合い)等を備えている。専用の蒸気洗濯所があり急ぎの旅客向けには1日以内に仕上げる。
・食事料は朝食1円、昼食1円50銭、晩食1円75銭
・球戯料は米国式球戯台1ゲーム25銭、英式ポケット球戯台1ゲーム50銭
・理髪料は髪刈り50銭、髭剃り25銭、シャンプー25銭
・入浴料50銭/回

最初の大連ヤマトホテルは、その後、満鉄の鉄道教習所へ衣替え、郵便局となり現在は取り壊されアパートとなっています。
2代目の大連ヤマトホテルは、3代目ホテルとなる現在の中山広場に移転してから、満鉄大連医院分院(小児科)→満鉄地質調査所→満蒙物資参考馆→満蒙資源館→満洲資源館、終戦後は東北地方史博物館→東北資源館→大連自然博物館と変遷しましたが1998年に大連自然博物館が黒石礁(黑石礁)へ移転したことで役目を終えました。2017/3現在は近づくこともできずほぼ廃墟となっています。2017年から百年港湾プロジェクトの1つとしてロシア風情街の特色を活かした街づくりが推進されますので、再興を期待したいものです。

2代目大連ヤマトホテルの現在の様子

2代目のヤマトホテルでの運営が始まった頃、上海航路によって旅客が増え客室が不足する見込みであったこと、元々が旅館として建築されたものではなく不便なところもあったため、大連市街の中枢に新たにホテルを建設することが計画されました。

そうして1914年(大正3年)8月に3代目となる大連ヤマトホテルが中山広場に移転開業しました。

大連ヤマトホテル(Automatic Image Colorization)

当時の満鉄の著作物では以下のように説明されています。漢字は新字体に変更、()に説明または語句を補足。

近代文化都市の粋を集めた大連大広場の南縁、丁度大島将軍の銅像を前にした処に、巍然として建つ、広壮典雅(広く立派で正しく整い上品)なルネサン(ス)式の建物、ヤマトホテルである。設備は総べて洋式、客室百余、外に三百人を容るる食堂があり、理髪、酒場、球戯、読書、応接等に間然(欠点を指摘)する所もない。屋上の露台(テラス)は、夏季納涼に備えて一般に開放し好個の安息所として市民に提供される。当初満鉄の付属事業として、同社の経営する所であったが、昭和三年南満洲所管株式会社に移管された。
なお星が浦および旅順、奉天、長春にも同名同経営者のホテルがあり、すべて満洲における世界的旅館の魅首(先駆け)となっている

昔はホテルの裏はゴルフ場で、満州国の溥儀も練習していたとのことです。

大連ヤマトホテルの屋上から大広場[中山広場]を臨む(Automatic Image Colorization)

この写真の男性は、どのような思いで眺めているのか気になりますね。

侵略やその後の敗戦など様々な出来事がありますが、日本各地から満州への玄関口となる大連に入り、内地(日本国内)の風景と全く異なった帝政ロシアの都市設計を引き継いだヨーロピアンスタイルの洗練された街並みを見て、新天地で一旗揚げようと一層奮起したであろう先駆者たちに現地に立って思いを馳せてみてください。

大連には帝政ロシア、日本が統治していた時代の建築物がいくつか残っていましたが、100年以上を経ていることもあり近年取り壊しが少しずつ進み、当時の面影をそのままの姿で残す建物が少なくなってきています。

見学について

見学について宿泊者は見学が無料で、宿泊者以外は50元/人です。日本語が話せる担当者の方が対応します。費用は最後に支払います。
見学の申し込みは現地時間9:00~16:00迄の間で予約無しにホテルのロビーで可能です。ただ、担当者の人数はあまりいないようですので、行ってすぐに見学といかないときもあると思います。

効率よい観光のため、時間交渉できるよう担当者の方をご紹介します。
邵旦祥さん(ショウさん)、携帯は139-9862-3322です。(日本語OK)

大連人民政府、市長の会議などで部屋を使っている場合は、貴賓室など一部が見学不可となります。なお治安防犯上の観点から見学箇所の一切の写真撮影ができなくなっています。見学の最初にその旨告げられますが、そこは中国です。どうしても撮影したい場合は熱意を持って担当の方と交渉してみてください。宿泊客なら宿泊客であることの強調、また中国人の交渉上手な人に同行してもらうとリクエストも通りやすくなります。また、廊下など共用スペースは撮影可能ですので撮影可かどうかは都度尋ねてみてください。
見学が終わって支払いを終えたら、2F喫茶店「大和」に立ち寄り当時の写真・資料やデッキからの風景を堪能ください。

アクセス

■宿泊予約
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■大連賓館
住所:〒116001 中国大連市中山広場4号
TEL 86-411-8263-3111 (日本から), 0411-8263-3111 (中国内)
HP:http://www.dl-hotel.com/jp/
大連周水子空港(大连国际机场)から
・タクシーで約30元,約30分
・地下鉄2号線で4元,約40分「中山广场(中山広場)」駅下車出口はDかD2で徒歩約5分。いずれの出口も車道を渡る必要があります。気をつけてください。

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