大連観光スポット「丹東」 (1) 虎山長城

北朝鮮との国境の街として知られる丹東(丹东)を何回かにわけてご紹介します。

丹東は遼寧省の東南部に位置し、北は遼寧省本溪市、東は鴨緑江(おうりょくこう)を隔て北朝鮮の新義州市、西は遼寧省鞍山市、南は黄海と接しており、秋田県 男鹿半島の北端、入道崎とほぼ同じ緯度にあります。

日本から丹東へは直通便は残念ながらありませんが上海経由の乗継ぎで向かうことができます。大連からは約300kmで高鉄(新幹線相当)で約2時間、車だと丹大高速道路(丹大高速公路)で約4~5時間ほどかかります。

丹東の観光スポットは主に4つです。

  1. 万里の長城の東端「虎山長城(虎山长城)」
  2. 中国と北朝鮮国境「一歩跨」
  3. 国境遊覧クルーズ(天逸クルーズ,天逸码头游船)
  4. 朝鮮戦争で破壊された鉄橋「鴨緑江断橋(鸭绿江断桥)」
  5. 北朝鮮経営レストラン「丹東高麗館(丹东高丽馆)」での食事

万里の長城の東端と言われる「虎山長城」

万里の長城の東端は長らく河北省の「山海関(山海关)」とされていましたが、1989~90年に中国政府の関係部門が調査した結果、「明史」の記載通りに遼寧省の「虎山長城(虎山长城, Hushan Great Wall)」まで万里の長城がつながっていることが確認され14世紀の明の時代の遺構として観光整備されています。「明史」とは清の時代に編纂された明の成立から滅亡まで記述された書物で、その中に明の時代に国境について東は鴨緑から西は嘉峪に至るまで防御したという記述があり、それに基づきます。

万里の長城について

2009年4月、国家測量局と国家文物局の調査によれば、明の時代の万里の長城は東端「虎山長城」(遼寧省)から西端「嘉峪関」(甘粛省)まで全長8,851.8km、内訳は人工的な壁6,259.6km、塹壕359.7km、自然の溝や崖2,232.5kmとなっています。

万里の長城の建設の歴史は遡ると周(西周)の時代、首都鎬京(長安、現在の陝西省西安市)の有名な故事「烽火戏诸侯(烽火劇諸侯)」のある記述が源となっています。

故事「烽火戏诸侯」は、私たちがよく知る狼少年、イソップ寓話「嘘をつく子供(狼と羊飼い,狼少年)」と似た話です。

周の幽王を諫めた大臣の褒珦が監獄に入れられ、その褒珦を救うため褒族の人々は幽王の好色なことを利用し美女を入官させ褒姒と名付け、幽王へ献上した。幽王は褒姒を寵愛するようになったが、宮廷に入って以来、褒姒は笑うことがなかった。
幽王はなんとか彼女を笑わせようと懸賞を計画。献策した虢石父によって烽火台を利用することになった。
烽火は敵襲の軍事警報。国も街も要塞化され、沿道に烽火台が設けられていた。いったん烽火が上がると、諸侯は駆けつけなければならない。
烽火台に何の理由も無く烽火をあげ諸侯を呼び寄せ、無駄足なところをからかうことで彼女は笑った。それを見た幽王はとてもうれしくて何度も烽火を点火させた。
烽火があがってもだんだん諸侯は信じなくなり駆けつけなくなりました。

この沿道に烽火台というのが長城が作られた始まりと言われています。

歴史はその後、犬戎が鎬京を攻略し、幽王を殺し最終的に西周の滅亡につながります。

西周滅亡後の春秋戦国時代は各諸国が城郭都市化し自国防衛のため城壁(長城)を築きました。このときはそれぞれの城壁は短く、秦が6カ国を統一したとき始皇帝がそれらを繋げ最初の万里の長城が築かれました。その後、各時代によって万里の長城のラインは変わり、明の時代の長城が今日見ることができる「万里の長城」の形となっています。

秦から明の時代について中国の歴史とその時代と日本の関わりを参考に記しました。

時代年代/期間何年前?
(2017年)
主な出来事、キーワード日本とのかかわり
紀元前1046年~紀元前256年3,063西周と東周
春秋戦国時代
-
紀元前221年~紀元前207年2,238始皇帝が国家統一
万里の長城
-
紀元前206年~220年2,223項羽と劉邦の楚漢戦争
黄巾の乱
漢書
漢委奴国王印
三国時代220年~280年1,797魏、蜀、呉の戦い
「三国志」
魏志倭人伝
265年~420年1,752司馬懿仲達の孫の
司馬炎が国家再統一
-
魏晋南北朝時代439年~589年1,578複数の王朝が割拠宋書
581年~618年1,436再統一
律令体制、科挙
遣隋使
618年~907年1,399首都長安(今の西安)
シルクロード交易
遣唐使
白村江の戦い
五代十国時代907年~960年1,110群雄割拠-
960年~1127年1,057再統一
文治主義、貨幣経済
日宋貿易(平氏)
1271年~1368年746モンゴル人の王朝
紅巾の乱
元寇(文永の役、弘安の役)
倭寇
1368年~1644年649皇帝独裁体制
紫禁城造営
日明勘合貿易
文禄・慶長の役
1616年~1912年401満州人による最後の王朝
西欧列強進出と内乱
日清戦争
日露戦争
中華民国1912年~1949年105(省略)日中戦争
中華人民共和国1949年~68(省略)-

万里の長城の東端とされていた「山海関」(河北省)と現在の東端「虎山長城」(遼寧省)と西端の「嘉峪関」(甘粛省)を示します。

「虎山長城(虎山长城,Hushan Great Wall)」

「虎山長城」は、国家AAAA(4A)級の鴨緑江風景区(鸭绿江风景区)の観光スポットの一つです。見どころとしては万里の長城の東端に加え、北朝鮮の風景、日清・日露の戦跡です。

虎山の正式名称は馬耳山で、二つ並んで峰状に高くそびえる形は連れ立った二匹の虎の耳にみえるということから虎耳山とも呼ばれており清の時代から虎山と呼ばれるようになりました。この写真は長城入口から虎山を撮影したもので、左に見える主峰は標高146.3mで山頂にある山城が見えます。

虎山の万里の長城は、山城と城壁そして烽火台で構成され、明の時代1469年に建州女真から領土防衛するために築かれました。

女真とは満洲民族のことです。元(モンゴル民族)と明(漢民族)から攻め込まれた満洲民族は白頭山(長白山)を中心に黒竜江省 松花江から遼寧省 鴨緑江の範囲でいくつもの部族に分かれて生活していました。この鴨緑江一帯は建州女真と呼ばれる部族が支配しており、明、李氏朝鮮と領土の争奪を行っていました。ただ建州女真は、まもなく明の遠征軍により支配下におかれ間接統治されていました。

歴史はその後、建州女真のヌルハチが女真を統一し1616年「後金」を建国した後、明に対し「七大恨(7つの大きな恨み)」を掲げ挙兵します。後金は「山海関」まで勝ち進みましたが、1626年 明の武将 袁崇煥の前にその関を越えることはできませんでした。敗退後、後金は詭計を弄し袁崇煥を1630年に誅殺しました。また、後金は内モンゴルを攻め帝の印である玉璽を手に入れ1636年に「清」へ国号を改めた後、再び明を攻めました。そうしているうちに明は内乱により1644年に滅亡し、滅亡により翻意した明の指揮官 呉三桂の導きによって、清は「山海関」を越え北京に入り反乱を治め中国を統一したというストーリーになります。

後金と明との争いによって「虎山長城」から「山海関」までの長城は取り壊されましたが、清の時代には長城はもはや軍事防衛ラインの意味をなさず、そのまま放棄され現在に至ることになります。

観光マップ

万里の長城の東端である「虎山長城」観光マップです。この観光マップに合わせ航空写真を掲載しました。黄色線が中国と北朝鮮の国境です。

観光ルートは、主に2つあります。観光ポイント名称は中国語と日本語で併記します。

  1. 『过街楼(過街楼)』→『山顶敌台(山頂敵台)』→『一号墩台』→『一歩跨』
  2. 『过街楼』→『山顶敌台』→(戻り)→『过街楼』→『一歩跨』

どちらのルートも距離は約2km強、成人男性、少し休憩で約2時間ほぼ同じです。景色や各台をゆっくり回る場合、またオンシーズンで混雑している場合はさらに時間がかかります。

1.の一周コースは上の写真の橙色線で、「山顶敌台」から「一号墩台」がかなり傾斜のある下り階段、「一号墩台」から「一歩跨」が崖下を歩くコースとかなり体力と時間が必要なコースとなっています。「山顶敌台」で景色を見ながらどうするか決めると良いと思います。

これら以外に「烽火台」の周囲、「过街楼(過街楼)」or 「虎踞龙盘(虎踞竜盤)」から「一号墩台」までぐるりとのどかな風景を見ながら歩くコースもあります。

ここがチケット売り場と入場門です。

この入場門を入ると、「虎踞龙盘(虎踞竜盤)」という花崗岩の彫像があります。2007年9月に建てられ、全体で約10m、彫像自体は9m弱の高さがあります。この彫像のプレートにある「万里长城东端起点—虎山」の題字は長年、万里の長城の研究に取り組み、この虎山長城の修復に尽力した中国建築史家であり中国文物研究所所長だった罗哲文さんによるものです。

本体の下部は鴨緑江の激しい波を表し、その上には山(虎山)があり、その山の右側に見える長髪の東方の巨人(中国)は竜の末裔で、右手に巨竜を従え、左手にある太陽は中国で一番始めに日の出が出るこの地を示します。

進むと「过街楼」(過街楼)が目に入ります。「过街城楼」とも呼ばれこの虎山長城のシンボル的な建物です。上部の櫓を含め高さ23.6mで城壁9.6m、櫓14mとなっています。城壁の奥行きは20.5mあります。

「过街城楼」の櫓部分では民族衣装を着た写真撮影サービス(有料)があります。

石畳の通路で歩きやすいものの標高146.3mアップダウン差が大きく、体力勝負なところがあります。一部かなり傾斜のある階段を上がります。

「山顶敌台(山頂敵台)」は「过街城楼」からは約800mで登り切ると、山城の上から北朝鮮の新義州を眺めることができます。この手前の中州の島、干赤島(於赤島)含め先は北朝鮮です。右側に見える川は鴨緑江の支流である靉河です。

地名の入った航空写真をパノラマ写真に合わせてみました。

靉河方面を見ると、手前に烽火台があり、愛河を越えると小高い山(写真中央)、九連城です。 九連城には日露戦争後に建立された「鴨緑江戦蹟」という碑があります。

この虎山は日清戦争「鴨緑江の戦い」、また日露戦争「鴨緑江会戦」の戦場でもありました。今の日本は過去の出来事の積み重ねの上にあり先人の歩みである当地での戦いについてまとめてみました。他サイトでまとめられているものも多いので、ここでは関係する部分だけに特化し記します。

日清戦争は1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)3月にかけて朝鮮半島を巡って日本と清が争った戦争です。平壌の戦いを経て進軍した日本軍は、1894年(明治27年)10月10日に鴨緑江を挟んで九連城を中心に展開した清国軍(約2万4千人)と対峙しました。日本軍は10月24日午後6時頃から鉄船や木造船を並べ軍橋を架け、翌25日暁に濃霧の中、虎山で戦いが始まり25日午前8時頃に虎山、10/26午前7時頃に九連城の陣地を占領し「鴨緑江の戦い」は終わりました。

「山顶敌台(山頂敵台)」からはその風景がうかがえます。上のパノラマ写真中央の小高い山に統軍亭があり、そこからやや左側で船を並べ多智島(黔定島)、そして干赤島(於赤島)へ渡河し左右に分かれ戦いが始まりました。左は後記する「一歩跨」付近、右は靉河を渡河しました。

もう一つ、日露戦争は1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日にかけて満洲と朝鮮半島を巡って日本と帝政ロシアが争った戦争です。満洲へ向かう日本軍は鴨緑江を渡河し北上しようとしましたが、帝政ロシア軍はそれを阻止すべく、地形を活かした九連城で待ち構えていました。日本軍は1904年(明治37年)4月30日の日中に九里島と干赤島(於赤島)の間を架橋、午後11時過ぎに干赤島(於赤島)と虎山の間の「一歩跨」付近に架橋しました。午前6時半より戦闘がはじまりましたが、帝政ロシア軍は撤退を続け、その日中に虎山、翌5月1日午前9時頃に九連城付近を占領し「鴨緑江会戦」は終わりました。干赤島(於赤島)、九里島は国境遊覧クルーズで通ります。

左が日清戦争「鴨緑江船橋」、右が日露戦争「九里島から於赤島へ軍橋を架設中」の当時の写真です。いずれも新義州方向からの撮影です。ディープネットワークを用いた白黒写真の自動色付けを施しています。

「山顶敌台(山頂敵台)」から「过街城楼」方向です。

「山顶敌台(山頂敵台)」から「一号墩台」へのかなり急な傾斜の階段を下ったところに、長城博物館があります。

「一号墩台」から「一歩跨」までは岩の間を歩く「虎口」や崖際、崖下を歩く千米栈道(1000m桟道)コースを進みます。

歩き渡ると「一歩跨」に到着します。

以下の記事に続きます。

http://dalianpress.com/dandong-02-hushan-great-wall/

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